キャスター(※没原稿)
弧を描く月の光、チェシャ猫の笑いの形になった天の裂け目より、青白い光が地上へと降り注ぐ。
それは意図して、また意図せずに顕界したサーヴァント達へ平等に降り注ぐ。
ある者は絶望に呑まれ、またある者は歓喜に包まれ、中にはもう感情すら持たなくなった者もいる。
けれど、あぁだけれどだ。彼らはあくまでも盤面の上の駒、王の上で転ぶ道化であって演者の一人に過ぎない。
全員が主役であって、全員が端役であると二律背反の運命を持ってはいるが、それだけだ。
彼らを冒涜的な舞台へ引きずり下ろした黒幕の姿は見えない――ただ、一人を除いては。
ある光の差さない地下室には血の臭いが密集していた。電気の明りは見えず、ただ空中に浮かんだ丸い光点が六つ。
一つは輝く腕を持った騎士を映し出し。
一つはネズミを率いる馬乗りを映し出し。
一つは女性の手を引く狂人を映し出し。
一つは主殺しを遂げた槍兵を映し出し。
一つは季節に染まる暗殺者を映し出し。
一つは復讐に燃える弓兵を映し出す。
足りないのは一つ。それは、ここにあった。
鼻歌交じりで――どこか遠い国の知らぬ言語で――楽しそうに眺めていたのは、女。
少女と女性の中間ぐらいの、幼さと妖艶さが同居している顔立ちをしていた。
だがまだとこか処女性を伺わせる外見とは裏腹に、その体は下腹が大きく膨らんでいた。
『楽しそう、ねぇ。みんな良い子よねぇ、仲が良くて。いいの、ねぇ私の坊や?』
愛おしく腹を撫でる仕草は妊婦のそれであり、まだ生まれぬ我が子を愛しているのが容易に見て取れる。我が子”だけ”は。
彼女が座しているのは血溜まりの中、腰掛けてるいるのは嘗て人間だった物。聖母の慈悲は自らの愛し子にのみ向けられ、他はあまり興味がないようだった。
薄暗い室内にあるのは奇妙なオブジェと奇怪な魔法陣。魔術知識がある者が見れば、驚愕し、そして溜息をつくのだろう。
どうして早まったことをしたのか、と。
何が起きたのかは分からない。結果として当事者は血の海へと沈み、一人の魔神が世へ解き放たれたのが全てだ。
そして彼女には興味がなかった。ただただ我が子を産み落とすことに専念し、他は些事であると。
『名前、そう、なんてつけようかしら……うーんと』
ピト、とその形のよい顎へ指をつけて考える。
『Epidemic 、Despair 、Poverty 、Crime ……大体の子供達は産んでしまったわね』
語られる内容は人類にとって悪果そのもので。
『人間も大分増えてしまったのだし、そうね――Misfortune ! あなたの名前はMisfortune よ!』
無邪気に笑う姿は微笑ましいものであったが、命のある只人が見れば怖気を震い、一目散に踵を返す。そんな光景であった。
彼女の言葉が正しいのであればサーヴァント達を間接的に、それとも直接的に産み落としたと言っている。
ならば次に産まれる存在もまた、混沌の落とし子である可能性は高かった。
の、だが。
『楽しくなってきたわねぇMisfortune ――』
『――災厄……あぁ、いいな。それこそが私に相応しい名だよ――』
『……え?』
まだ産まれぬ我が子へ優しく語りかけ、愛と絶望を説く独り言に返事があった。
彼女以外誰もいない部屋で、第三者の声で。
『我が仮初めの妣 よ、絶望と希望を秤にかけ、天秤を揺らしたる愚かな女よ。誇るがよい、誇ればよい』
『ぼう、や……?』
『貴様の筺 に収っていた災厄は逃げ出し、後に残された希望とて分かったものではないよ』
パジュウッ、と彼女の腹から手が生える。その腕もまたか細い少女のもので、グググ、と腹を一層広く切り破いた。
『ダ――メよ! まだ、まだ早――』
『畏れよ。厄災が降りかかるのは貴様とて同じこと、エピメテウスが被害者だけと誰が決めた? この私が逃れられると思ったか?』
『か――あっ……』
腕は妊婦の喉笛を鷲掴みに――ではなく、半ば程まで握り潰していた。
『――などと、偽悪めいて嘯いていた時期もあったのだがな。今にして思えば若かったものだな』
『が……げぅ……っ!』
『あぁいや誤解をされてもらっては困るのだが、今も若いから。充分に、そう不必要なほどに』
『たす、け――』
『――』
ずぶり、とパンドラの躰 から眼帯をはめた少女 が現れる。
『――この、私が顕界すると』
かくして役者は出揃った。元凶は誰にも知られず命を落とし、彼女の産んだ災厄達が戦いを始めようとしていた。
希望が出る前に筺は未来を閉ざされ、災厄共だけが解き放たれた。
聖杯を廻る戦争が、パンドラの産んだ災いの種が今芽吹こうとしている。
その結末はまだ誰も分からない。
か、に見えた。全ての災厄が飛び出した後に、筺の中へ残っていた希望はその躰ごと握り潰されたように。
パンドラの女と共に生きることを許されず、生まれ出でる喜びすら与えられなかった最後の子が。
『……甘くなったものだが、まぁいいだろう』
以前であれば躊躇わず命を踏みにじっていた眼帯の少女は、女の首をへし折る寸前で手を緩めていた。
サーヴァントを殺したとしても、どうせ仮初めの肉体であって本質的に滅ぼすには程遠いのだが、どうせ理解はしてくれないだろう、と。
……何度か諭し、時には脅してみたものの、”彼”にとってすればそこは越えられぬ一線であるようで、今の所徒労に終っている。
が、まぁ少女にとってすれば好ましい点ではあった。何よりも彼女自身も救われた口であるから。その甘さに。
『……さて、と』
とはいえ自分まで彼の流儀に染まるつもりはない。必要があれば手を汚すのに躊躇いなどしてやる義理もない。
まだこちらへ彼が来ていない以上、不穏分子を一掃してしまうのも悪くはない。
敵を皆殺しにしてから「最初からこうだったのだ」、「もう手遅れだったのだ」とでも言えば、疑うことなくあっさりと信じて込んでくれるだろう。赤子の手を捻るより遙かに難度は低く、無条件の信頼を寄せられている。
けれど、だ。
故に、信頼されてるために裏切れはしない。裏切れなど出来るわけがない。
コイツの信頼を裏切ったらもう終わり だと
厳しい制約を架せられている方がまだマシだった。枷が強固であればあるだけ柔軟性を欠き、制約の隙を見つけて裏口破りをするなど造作もないというのに。
無条件の信頼と無謬の善性ほど始末が悪いものはない。何をすればいいのか、何をしては駄目なのか、一々全てを秤にかけては是非を決める。面倒以外の何者でもない。
そして、極めつけに厄介なのは、何者よりもタチが悪いのは。
少女自身が外道の行為へ手を染めたとしても、踏み外した道へ返り咲いたとすれば。
手を汚させたのは自分が不甲斐なかったのだ 、捨て犬のような目をして寂しげに笑うと想像できてしまっていた。
知ってしまったらもう無理だ。理解してしまった時にはもう遅い。
他人の痛みにどこまで敏感で、自身の痛みは笑い飛ばして我慢するのに慣れた。壊れてしまった人間。
他の全てを壊してもいいと思う故に、たった一人のためには壊してはならないと矛盾が生じ、少女の生き方は大きく変わってしまっていた。
これは、そう――”呪い”だ。
『まぁ――』
「……………………ーぃ……………………」
囚われてしまえばそれほど悪くない、と続けようとして少女は止まった。探していた少年の声が、想像してたよりもずっと近くで。
『んー……?』
倒れた女の躰――パンドラの裂いた腹の辺りで。
「……ぉー……ぃ……」
『……探さなくては、とは思っていたんだが……よりにもよって同じ場所か』
「おーい、助けてくれよ! なんかこうここ暗くて温かくて変な感じ! 妙に懐かしいような!」
『その感想は正しくもあるが……まぁ、待て。今引っ張り上げる前に、取り敢えず目を瞑れ』
「目……? なんかあんの? もしかしてまた俺知らない内にラッキースケベしちゃったの!?」
『広義ではその反応は正しくないわけでない。ただ相当ニッチな感じなので安心していいぞ』
「なんだそのフワっとした言い方」
『ただエロいと言うよりグロい』
「さぁ早く! 俺を引っ張りだして下さいお願いしますっ!」
『手を伸ばせ――ほらよっと……!』
『はぅんっ』
「今なんかエロい声がしたよ!? ねぇこれ本当に大丈夫!? 絵的に俺ヤバくなってない!?」
『ヒント――妊婦』
「……」
『どうした?』
「――ここが」
『うむ』
「――『特異点の世界』か……ッ!」
『いや無理だからな。そんな再出産モドキの最中に編集点入れてそれっぽい台詞トバされても、ここからは立ち直らないからな』
「だってしょーがねーじゃんかよ!? つーかお前が開いたんだろうが! 界渡りするからって!」
『”どうせだったら災禍の渦に飛び込んで行ってやれ”みたいな会話をした憶えがあるのだが?』
「選べよ! もっと選びなさいよ! 素人さんが引かない程度のゲートだってあるだろ! いや知んないけども!」
『……フッ、私もお前の悪い影響を受けてしまっている、ということだな』
「その台詞使うの今じゃなくね? それアレだよ、こう何か前は絶対してなかった人助けとかしした後に使うよね? ヒトに全責任を押しつける時には使っちゃ駄目なやつだよね?」
暫し二人は口論――に似たじゃれ合い――に興じ、お互いの無事を確認する。
歪んでいない か、まだ 狂っていないかをそれとなく。
彼らが征く道は果てのない闘争の世界。この世を満たす真実の一欠片を捜し求めるため。
彼女らが逝く道は終わりなき逃走の世界。あの世を穢す偽りの断章を追い求めるために。
『悪い知らせ、あととても悪い知らせがある。どちらか聞きたい?』
「……心臓に優しそうな方から頼む」
『”銀腕”が現界している。しかも……あの愚か者、自身の契約者に攻撃しているな』
「意味が分からんわ! つーか何やってんだあの王様! 暇か!」
『カッシウスの長槍はここにはなく、赤毛の従者もここには居ない。まぁ、なんとかしてみせるさ』
「人の友達従者呼ばわりすんなよ……で、もう一つは?」
『この女――』
足で床に転がる女を指す。裂かれた傷は既に癒えている。
『――ライダーだった』
「へー……」
『……』
「――ここが、『特異点の世界』か!」
『いやいや何ループさせてんだ。ていうかここは驚くところじゃないのか!?』
「あぁいや、聖杯戦争だっけ? ルールは聞いてんだけど、別に驚くところじゃなくね?」
『……私の権能の性質上、向いているクラスと向いていないクラスがあるのは言ったよな? 説明、したよな?』
「あー聞いた聞いた。一番望ましいのが魔法使いでって話だろ」
『そうだな。片眼をミーミルの泉へ投げ込み、トネリコの樹で首を括ってルーンを得た逸話がある故に、だ』
「お前らの世界観が分からん」
『正確には誤訳と解釈の違い、そしてそもそもノルド語族の文化の継承者をキリスト教圏の文化へ当て嵌めて理解しようとしたのが間違いであり――』
「分かった分かった! 後で聞くから今はもっと大事な話!」
『まぁ”槍”を使っているからランサー、投擲用途に特化してアーチャー、変化の術を生かしてアサシン辺りもどうにかなる』
「流石は主神」
『――が、今はこの女から簒奪したクラスは”ライダー”なのだよ』
「あ、知ってる。八本足の馬に乗るんだっけか」
『相性としては悪くない――というよりも、かなり良い。本命の次にと思っていたので、不都合は無いに等しい』
「じゃあ別に――」
『もう一人居るのだ、ライダーが』
「被った……?」
『マスターへ対しての名乗りで真名を告げず、自称なので欺いているのは確実――だが、それをしてどうする? 何が目的だ?』
「情報を、自分の弱みを見せたくないってのが普通に考えられるけど」
『妥当であれば その辺りなのだろうが、警戒をしておくに越したことはない。世に名高いシリアルキラーも混じっているしな』
「おい悪い知らせは二つじゃなかったんですかコノヤロー」
『些事だ。障害がなかったことなど、ない』
「まぁな! なんかこう神様に愛されるってぐらいトラブルに巻き込まれてるよな!」
『それとも――もう嫌だというのであれば、ここら辺で旅をやめて腰を落ち着けるのも悪くはない。だろう?』
「あぁ……そうだな。悪くないな、それもさ」
冗談を装った軽口は真理を突いていた。
背負いきれないほどの命を助け、救いきれない慟哭の叫びを背にし、それでもまだ。前へ進む――奈落へ落ちていく。
英雄であったとしてもとうの昔に放り出していた、長い長い界渡りを二人は繰り返していた。
ある時は人知れず世界を救い、またある時には破滅をもたらす悪と戦い、時には志を持つ若者と行動を共にしたこともある。
だが彼らは英雄ではない。英雄なんかでは、決して、ない。
高尚な目的があるのではなく、これといった崇高な信念があるのでもない。
ただ、自分達の居た場所へ還るのだ、と。たったそれだけのために。
「あぁ征こうぜ、俺の共犯者 」
『あぁ逝こうよ、私の理解者 』
−終−
それは意図して、また意図せずに顕界したサーヴァント達へ平等に降り注ぐ。
ある者は絶望に呑まれ、またある者は歓喜に包まれ、中にはもう感情すら持たなくなった者もいる。
けれど、あぁだけれどだ。彼らはあくまでも盤面の上の駒、王の上で転ぶ道化であって演者の一人に過ぎない。
全員が主役であって、全員が端役であると二律背反の運命を持ってはいるが、それだけだ。
彼らを冒涜的な舞台へ引きずり下ろした黒幕の姿は見えない――ただ、一人を除いては。
ある光の差さない地下室には血の臭いが密集していた。電気の明りは見えず、ただ空中に浮かんだ丸い光点が六つ。
一つは輝く腕を持った騎士を映し出し。
一つはネズミを率いる馬乗りを映し出し。
一つは女性の手を引く狂人を映し出し。
一つは主殺しを遂げた槍兵を映し出し。
一つは季節に染まる暗殺者を映し出し。
一つは復讐に燃える弓兵を映し出す。
足りないのは一つ。それは、ここにあった。
鼻歌交じりで――どこか遠い国の知らぬ言語で――楽しそうに眺めていたのは、女。
少女と女性の中間ぐらいの、幼さと妖艶さが同居している顔立ちをしていた。
だがまだとこか処女性を伺わせる外見とは裏腹に、その体は下腹が大きく膨らんでいた。
『楽しそう、ねぇ。みんな良い子よねぇ、仲が良くて。いいの、ねぇ私の坊や?』
愛おしく腹を撫でる仕草は妊婦のそれであり、まだ生まれぬ我が子を愛しているのが容易に見て取れる。我が子”だけ”は。
彼女が座しているのは血溜まりの中、腰掛けてるいるのは嘗て人間だった物。聖母の慈悲は自らの愛し子にのみ向けられ、他はあまり興味がないようだった。
薄暗い室内にあるのは奇妙なオブジェと奇怪な魔法陣。魔術知識がある者が見れば、驚愕し、そして溜息をつくのだろう。
どうして早まったことをしたのか、と。
何が起きたのかは分からない。結果として当事者は血の海へと沈み、一人の魔神が世へ解き放たれたのが全てだ。
そして彼女には興味がなかった。ただただ我が子を産み落とすことに専念し、他は些事であると。
『名前、そう、なんてつけようかしら……うーんと』
ピト、とその形のよい顎へ指をつけて考える。
『
語られる内容は人類にとって悪果そのもので。
『人間も大分増えてしまったのだし、そうね――
無邪気に笑う姿は微笑ましいものであったが、命のある只人が見れば怖気を震い、一目散に踵を返す。そんな光景であった。
彼女の言葉が正しいのであればサーヴァント達を間接的に、それとも直接的に産み落としたと言っている。
ならば次に産まれる存在もまた、混沌の落とし子である可能性は高かった。
の、だが。
『楽しくなってきたわねぇ
『――災厄……あぁ、いいな。それこそが私に相応しい名だよ――』
『……え?』
まだ産まれぬ我が子へ優しく語りかけ、愛と絶望を説く独り言に返事があった。
彼女以外誰もいない部屋で、第三者の声で。
『我が仮初めの
『ぼう、や……?』
『貴様の
パジュウッ、と彼女の腹から手が生える。その腕もまたか細い少女のもので、グググ、と腹を一層広く切り破いた。
『ダ――メよ! まだ、まだ早――』
『畏れよ。厄災が降りかかるのは貴様とて同じこと、エピメテウスが被害者だけと誰が決めた? この私が逃れられると思ったか?』
『か――あっ……』
腕は妊婦の喉笛を鷲掴みに――ではなく、半ば程まで握り潰していた。
『――などと、偽悪めいて嘯いていた時期もあったのだがな。今にして思えば若かったものだな』
『が……げぅ……っ!』
『あぁいや誤解をされてもらっては困るのだが、今も若いから。充分に、そう不必要なほどに』
『たす、け――』
『――』
ずぶり、とパンドラの
『――この、私が顕界すると』
かくして役者は出揃った。元凶は誰にも知られず命を落とし、彼女の産んだ災厄達が戦いを始めようとしていた。
希望が出る前に筺は未来を閉ざされ、災厄共だけが解き放たれた。
聖杯を廻る戦争が、パンドラの産んだ災いの種が今芽吹こうとしている。
その結末はまだ誰も分からない。
か、に見えた。全ての災厄が飛び出した後に、筺の中へ残っていた希望はその躰ごと握り潰されたように。
パンドラの女と共に生きることを許されず、生まれ出でる喜びすら与えられなかった最後の子が。
『……甘くなったものだが、まぁいいだろう』
以前であれば躊躇わず命を踏みにじっていた眼帯の少女は、女の首をへし折る寸前で手を緩めていた。
サーヴァントを殺したとしても、どうせ仮初めの肉体であって本質的に滅ぼすには程遠いのだが、どうせ理解はしてくれないだろう、と。
……何度か諭し、時には脅してみたものの、”彼”にとってすればそこは越えられぬ一線であるようで、今の所徒労に終っている。
が、まぁ少女にとってすれば好ましい点ではあった。何よりも彼女自身も救われた口であるから。その甘さに。
『……さて、と』
とはいえ自分まで彼の流儀に染まるつもりはない。必要があれば手を汚すのに躊躇いなどしてやる義理もない。
まだこちらへ彼が来ていない以上、不穏分子を一掃してしまうのも悪くはない。
敵を皆殺しにしてから「最初からこうだったのだ」、「もう手遅れだったのだ」とでも言えば、疑うことなくあっさりと信じて込んでくれるだろう。赤子の手を捻るより遙かに難度は低く、無条件の信頼を寄せられている。
けれど、だ。
故に、信頼されてるために裏切れはしない。裏切れなど出来るわけがない。
コイツの信頼を裏切ったらもう
厳しい制約を架せられている方がまだマシだった。枷が強固であればあるだけ柔軟性を欠き、制約の隙を見つけて裏口破りをするなど造作もないというのに。
無条件の信頼と無謬の善性ほど始末が悪いものはない。何をすればいいのか、何をしては駄目なのか、一々全てを秤にかけては是非を決める。面倒以外の何者でもない。
そして、極めつけに厄介なのは、何者よりもタチが悪いのは。
少女自身が外道の行為へ手を染めたとしても、踏み外した道へ返り咲いたとすれば。
手を汚させたのは
知ってしまったらもう無理だ。理解してしまった時にはもう遅い。
他人の痛みにどこまで敏感で、自身の痛みは笑い飛ばして我慢するのに慣れた。壊れてしまった人間。
他の全てを壊してもいいと思う故に、たった一人のためには壊してはならないと矛盾が生じ、少女の生き方は大きく変わってしまっていた。
これは、そう――”呪い”だ。
『まぁ――』
「……………………ーぃ……………………」
囚われてしまえばそれほど悪くない、と続けようとして少女は止まった。探していた少年の声が、想像してたよりもずっと近くで。
『んー……?』
倒れた女の躰――パンドラの裂いた腹の辺りで。
「……ぉー……ぃ……」
『……探さなくては、とは思っていたんだが……よりにもよって同じ場所か』
「おーい、助けてくれよ! なんかこうここ暗くて温かくて変な感じ! 妙に懐かしいような!」
『その感想は正しくもあるが……まぁ、待て。今引っ張り上げる前に、取り敢えず目を瞑れ』
「目……? なんかあんの? もしかしてまた俺知らない内にラッキースケベしちゃったの!?」
『広義ではその反応は正しくないわけでない。ただ相当ニッチな感じなので安心していいぞ』
「なんだそのフワっとした言い方」
『ただエロいと言うよりグロい』
「さぁ早く! 俺を引っ張りだして下さいお願いしますっ!」
『手を伸ばせ――ほらよっと……!』
『はぅんっ』
「今なんかエロい声がしたよ!? ねぇこれ本当に大丈夫!? 絵的に俺ヤバくなってない!?」
『ヒント――妊婦』
「……」
『どうした?』
「――ここが」
『うむ』
「――『特異点の世界』か……ッ!」
『いや無理だからな。そんな再出産モドキの最中に編集点入れてそれっぽい台詞トバされても、ここからは立ち直らないからな』
「だってしょーがねーじゃんかよ!? つーかお前が開いたんだろうが! 界渡りするからって!」
『”どうせだったら災禍の渦に飛び込んで行ってやれ”みたいな会話をした憶えがあるのだが?』
「選べよ! もっと選びなさいよ! 素人さんが引かない程度のゲートだってあるだろ! いや知んないけども!」
『……フッ、私もお前の悪い影響を受けてしまっている、ということだな』
「その台詞使うの今じゃなくね? それアレだよ、こう何か前は絶対してなかった人助けとかしした後に使うよね? ヒトに全責任を押しつける時には使っちゃ駄目なやつだよね?」
暫し二人は口論――に似たじゃれ合い――に興じ、お互いの無事を確認する。
彼らが征く道は果てのない闘争の世界。この世を満たす真実の一欠片を捜し求めるため。
彼女らが逝く道は終わりなき逃走の世界。あの世を穢す偽りの断章を追い求めるために。
『悪い知らせ、あととても悪い知らせがある。どちらか聞きたい?』
「……心臓に優しそうな方から頼む」
『”銀腕”が現界している。しかも……あの愚か者、自身の契約者に攻撃しているな』
「意味が分からんわ! つーか何やってんだあの王様! 暇か!」
『カッシウスの長槍はここにはなく、赤毛の従者もここには居ない。まぁ、なんとかしてみせるさ』
「人の友達従者呼ばわりすんなよ……で、もう一つは?」
『この女――』
足で床に転がる女を指す。裂かれた傷は既に癒えている。
『――ライダーだった』
「へー……」
『……』
「――ここが、『特異点の世界』か!」
『いやいや何ループさせてんだ。ていうかここは驚くところじゃないのか!?』
「あぁいや、聖杯戦争だっけ? ルールは聞いてんだけど、別に驚くところじゃなくね?」
『……私の権能の性質上、向いているクラスと向いていないクラスがあるのは言ったよな? 説明、したよな?』
「あー聞いた聞いた。一番望ましいのが魔法使いでって話だろ」
『そうだな。片眼をミーミルの泉へ投げ込み、トネリコの樹で首を括ってルーンを得た逸話がある故に、だ』
「お前らの世界観が分からん」
『正確には誤訳と解釈の違い、そしてそもそもノルド語族の文化の継承者をキリスト教圏の文化へ当て嵌めて理解しようとしたのが間違いであり――』
「分かった分かった! 後で聞くから今はもっと大事な話!」
『まぁ”槍”を使っているからランサー、投擲用途に特化してアーチャー、変化の術を生かしてアサシン辺りもどうにかなる』
「流石は主神」
『――が、今はこの女から簒奪したクラスは”ライダー”なのだよ』
「あ、知ってる。八本足の馬に乗るんだっけか」
『相性としては悪くない――というよりも、かなり良い。本命の次にと思っていたので、不都合は無いに等しい』
「じゃあ別に――」
『もう一人居るのだ、ライダーが』
「被った……?」
『マスターへ対しての名乗りで真名を告げず、自称なので欺いているのは確実――だが、それをしてどうする? 何が目的だ?』
「情報を、自分の弱みを見せたくないってのが普通に考えられるけど」
『妥当で
「おい悪い知らせは二つじゃなかったんですかコノヤロー」
『些事だ。障害がなかったことなど、ない』
「まぁな! なんかこう神様に愛されるってぐらいトラブルに巻き込まれてるよな!」
『それとも――もう嫌だというのであれば、ここら辺で旅をやめて腰を落ち着けるのも悪くはない。だろう?』
「あぁ……そうだな。悪くないな、それもさ」
冗談を装った軽口は真理を突いていた。
背負いきれないほどの命を助け、救いきれない慟哭の叫びを背にし、それでもまだ。前へ進む――奈落へ落ちていく。
英雄であったとしてもとうの昔に放り出していた、長い長い界渡りを二人は繰り返していた。
ある時は人知れず世界を救い、またある時には破滅をもたらす悪と戦い、時には志を持つ若者と行動を共にしたこともある。
だが彼らは英雄ではない。英雄なんかでは、決して、ない。
高尚な目的があるのではなく、これといった崇高な信念があるのでもない。
ただ、自分達の居た場所へ還るのだ、と。たったそれだけのために。
「あぁ征こうぜ、俺の
『あぁ逝こうよ、私の
−終−